舞楽曲目解説

<あ行>

安摩・二之舞(あま・にのまい)

振鉾(えんぶ)

延喜楽(えんぎらく)

<か行>

賀殿(かてん)

迦陵頻(かりょうびん)

甘州(かんしゅう)

貴徳(きとく)

胡蝶(こちょう)

胡徳楽(ことくらく)

狛桙(こまぼこ)

<さ行>

採桑老(さいそうろう)

獅子(しし)

春庭花(しゅんていか)

蘇莫者(そまくしゃ)

蘇利古(そりこ)

<た行>

太平楽(たいへいらく)

打毬楽(たぎゅうらく)

桃李花(とうりか)

<な行>

納曽利(なそり)

<は行>

陪臚(ばいろ)

八仙(はっせん)

白浜(ほうひん)

北庭楽(ほくていらく)

菩薩(ぼさつ)

<ら行>

蘭陵王(らんりょうおう)


振鉾(えんぶ)

 舞楽の演奏に当たって、まず最初に舞われる儀式的な舞曲である。もともと天地の神と祖先の霊に祈りを捧げ、舞台を清める宗教的な意味を持ったものである。舞人は口に次のような鎮詞を唱えながら舞う。

 「天地長久、政和世理、国家太平、雅音成就」

 左右の舞人が一人ずつ出て、鉾を上下左右に打ち振って舞う。まず左方の舞人が舞う。次に右方の舞人が替わって舞い、最後に左右の舞人が同時に舞台に上り舞う。これを「合鉾」(あわせぼこ)という。以上のように三度舞うことを「振鉾三節(えんぶさんせつ)といい、天王寺では今もなお厳重に守られている。


蘇利古(そりこ)

 朝鮮半島伝来の右方の舞である。百済からの帰化人で須々許理(すすこり)という人が、この舞を伝えたという。右方平舞(へいぶ)装束の諸肩袒(もろかたぬぎ)の姿で、長方形の布に人面の抽象図をかいたといわれる「雑面」(ぞうめん)を顔につけているのが特徴である。手に持っている棒を「白楚」(ずばえ・ずわい)という。この舞が五人で舞われるのは天王寺独特である。

 蘇利古は四天王寺の聖霊会舞楽法要の最初の舞楽として欠くことができない。この舞が舞台で舞われている間に、堂内では宮殿(くうでん)に安置されている聖徳太子の御影の帳(とばり)を上げる「御上帳」(みじょうちょう)の儀式と御水を捧げる「御上水」(みちょうず)の秘儀が行われる。一説には太子のお目覚めを慰めるための供養舞であるとも伝える。聖霊会の儀式進行上、省くことのできない、天王寺独特の舞楽の一つである。


桃李花(とうりか)

 赤白桃李花(せきはつとうりか)という別称を持ち、その源は中国唐代、桃花最盛の三月三日に行われる曲水の宴に奏された舞曲であったとも、唐の高祖の時代の草木にちなんだ二十一歌曲のうちの一つであったともいわれていますが、その舞いはすでに絶え、わが国中古にいたり、央宮楽(ようぐうらく)をもってこれを再興したと伝えられています。現在は左方唐楽黄鐘調に属する代表的な平舞の一つになっています。 まず黄鐘調調子(おうしきちょうのちょうし)が奏されますと、巻嬰冠をかぶり、宮廷の武官の姿をかたどったといわれる蛮絵装束(ばんえしょうぞく)を着けた舞人が順次登台し、各々所定の舞座につきます。つづいて桃李花の当曲がが発楽されますと、舞人達は艶やかな紫色地に獅子の縫い取りがほどこされた袍(ほう)の袖を翻し、この舞の特徴である指手(さすて)を幾度となく繰り返しながら美しい舞態を繰り広げます。当曲が終わりますと、再び「調子」が奏され、舞人達は入手(いるて)を舞って静かに退場して行きます。


菩薩(ぼさつ)

 この曲はインドから伝えられた舞曲の一つと思われるが、また「伎楽」の一つではなかったかともいわれている。古記録によれば聖霊会には欠くことのできない舞楽の一つとなっているから、昔は当然舞われていたことは確かであるが、現在ではその舞は失伝している。壱越調「菩薩」の曲を演奏し、その間に「大輪小輪」(おおわこわ)と称して、二人の菩薩が舞台上を、二回交錯して回るだけの作法となっている。


獅子(しし)

 これは明らかに「伎楽」であり、後世三味線音楽や歌舞伎、舞踊に取り入れられて広く普及した獅子舞の最も古い原形といえる。天王寺では儀式の行道(ぎょうどう)の先駆をし、天王寺にのみ伝承されている「獅子」の秘曲に合わせて、舞台上で舞う。しかし、現在では、その舞は失伝してしまって、菩薩と同様舞台上を輪を描いて歩くだけの「大輪小輪」(おおわこわ)の所作だけが行われる。もっとも近年は、古記録にもとづき四方拝の所作をとり入れている。しかし、龍笛の独奏に三ノ鼓(さんのつづみ)太鼓、鉦鼓(しょうこ)を加えて演奏される「獅子」の曲は、今なお正しく伝承されている。ゆるやかな旋律と深い響きを湛えたこの秘曲は、龍笛の特徴をフルに生かした名曲といえる。


迦陵頻(かりょうびん)

 天平八年(736)林邑の僧仏哲により伝えられた「林邑八楽」(りんゆうはちがく)の一つである。この曲はインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)供養の日に迦陵頻迦(かりょうびんが)という鳥が飛来して、囀(さえ)ずり舞う姿を妙音天女が舞曲にして、阿難尊者に伝えたという伝説がある。仏典には極楽に棲む霊鳥として、「迦陵頻迦」(かりょうびんが)の名が記述されているし、平安時代のわが国の文学には、天来の妙音を囀ずる極楽鳥として、しばしばその名前が出てくる。

 いずれにしても、仏教法会の供養舞として右方の「胡蝶」(こちょう)とともに欠くことのできない舞楽である。この曲は「胡蝶」とともに、童舞(わらべまい)で、背に鳥の羽を着け、天冠(てんがん)に桜の花を挿し、手の銅拍子を打ちながら、円をつくって舞台上を飛びまわる姿は、軽快可憐、まさに浄土の荘厳を見る思いがする。


胡蝶(こちょう)

 舞楽の大半は、古代の大陸から伝来したものであるが、平安時代に至り、完全に日本の音楽舞踊として消化吸収されてから、わが国でも何曲か作曲された。この曲は高麗楽の形式で作られた中の一曲である。しかも左方の「迦陵頻」(かりょうびん)の番舞(つがいまい)として作られた、舞楽中ただ二曲の可憐な美しい童舞である。楽書によれば、延喜六年に宇多上皇が童相撲(わらべずもう)をご覧になった時に作られたという。また曲は山城守藤原忠房の作曲、舞は敦実親王によって作舞されたと伝えられている。

 天王寺舞楽では、「迦陵頻」(かりょうびん)とこの曲の二つの童舞は、伝統にしたがって今でも男の子(小学生)によって舞われている。


白浜(ほうひん)

一名栄円楽とも呼ばれ、白浜の名は朝鮮の地名から起こったものらしい。舞人は右方の蛮絵装束を用いる。楽は最初高麗笛と篳篥の主管だけによる「序吹」と呼ばれる無拍節の部分から始まる。合奏になると四人の舞人が舞台に上がり舞が始まる。中程になると舞人が左右に向き合って跪き片肩袒となり、今度は四人が輪を作って舞う。この辺が一番華やかな手振りで美麗な袖を翻しながら舞台の四面四隅を背合わせに、あるいは向き合って一周する態は殊に趣が深く、栄円楽の名は恐らくこの輪を作って舞う華やかな姿から起こったものではないだろうか


太平楽(たいへいらく)

 この曲は、古代中国の武将の舞であることはいかめしいその装束を見ただけでわかる。鎧(桂甲(けいこう)ともいう)を着け、兜をかぶり、肩喰(かたくい)・脛当(すねあて)・籠手(こて)を付け、太刀を帯び、魚袋(ぎょたい)・やなぐいを背負い、手に鉾をもったたいそうな姿である。四天王寺の舞人の装束を全部つけ終わるためには約一時間を要する。曲は序破急に分かれ、三つの曲によって構成された一種の組曲である。

 破の章では鉾を打ち振り、急の章では太刀を抜き舞うため、戦陣における剣の舞で、好戦的な舞曲としれ解されがちであるが、天王寺ではこの剣は破邪顕正の剣で宗教的平和を称える曲として伝えられてきた。魚袋には弓が無く、やなぐいの矢が逆さに入っているのは、天下の太平を寿ぐ意味があるという。

 この舞楽は「蘇利古」や「迦陵頻」と同様に聖霊会舞楽法要に省くことのできない重要な役割ももっている。この曲の急で、舞人が太刀を抜くのを合図に、舞台四隅のかがりに火が入れられ、堂内の聖徳太子御影が巻き上げられて還御される。これは、古来からのしきたりとして守られている。したがって太平楽の演奏がなければ、聖霊会の儀式が終了しないことになるのである。昔の聖霊会には、早朝から深夜まで、二十五曲の舞楽が、延々と奉納されていたことが記録に残っている。したがって「太平楽」が演奏される頃には、日没となり夕闇が迫っていた。かがりの火明かりの下で舞が舞われ、楽の音は夜空を高く高く響いていったことであろう。その名残を今もなおそのままに伝えている。


貴徳(きとく)

 渤海地方(現在のシベリア地方)から伝えられた右方の曲である。その昔、漢の帝王に降伏して帰徳候と名乗った王将が匈奴にいたが、この王はすこぶる勇将であった。その勇姿を模したものという。眼光鋭く鼻高き勇猛な面をつけ、番子を従えて、するどく鉾を打ちすえる舞振りは、よく勇将の面影をしのばせるものがある。番舞(つがいまい)である左方の「散手」(さんじゅ)とともに、気品の高い王舞とされている。曲はまず、、小乱声、高麗乱声(こまらんじょう)、小音取と続き、高麗壱越調の「貴徳破」、さらに軽快な唐拍子の「急」で舞われる。


春庭花(しゅんていか)

 天王寺では、一帖だけ舞うときは「春庭楽」(しゅんていらく)といい、二帖舞うときは「春庭花」(しゅんていか)という。唐の則天武后の代に作られたといい、わが国には延暦年間(782〜806)に遣唐舞生の久礼真蔵(くれのさねくら)が伝えたといわれる。その時は太食調(たいしきちょう)の曲であったが、のち承和年中(834〜848)に、時の仁明帝の勅命によって、和邇部太田麿(わにべのおおたまろ)が、「双調」(そうじょう)の曲に移調編曲して、犬上是成(いぬがみのこれなり)が作舞したとも伝えられる。

 装束は左方の「蛮絵」(ばんえ)の袍(ほう)を着て、「巻纓」(けんえい)の冠をかぶり、腰に「笏」(しゃく)を指し太刀をはいている。王朝時代の武官の正装である。同じ装束で舞う曲に「桃李花」(とうりか)という舞楽がある。曲は「調子」(ちょうし)で出、当曲が終わって入手(いるて)の時には「重吹」(しげぶき)で入る。番舞は「白浜」。


陪臚(ばいろ)

 天平年間、林邑(ベトナム)から伝わった舞といわれている。裲襠装束に剣、盾鉾を持った四人の舞人によって舞われる。「破・急」の二部からなり、「破」の部分では、剣と盾をもって切りむすぶ様を演じる。「急」の部分では鉾を持ちこれを振り隊列を成して退場する。


狛桙(こまぼこ)

 高麗から日本へ渡来する船人の姿を模して、わが国で作られたものと思われる。五色に彩色した長い棹を、四人の舞人が巧みに揃えて舞う姿は、まことに優美であるとともに、舞楽には珍しいジオメトリックな美を構成する。

 装束は武官裲襠(ぶかんりょうとう)という萌葱色の別装束をつけ、抹額(まっこう=額に赤色の布を巻く)のついた巻纓(けんえい)の冠をかぶる。ただし天王寺では抹額は用いない。左方太平楽の番舞(つがいまい)としての右方の大曲である。


賀殿(かてん)

 一名「甘泉楽」(かんせんらく)ともいい、その昔唐の甘泉宮で舞ったと伝えられている。仁明天皇の承和二年(835)に、勅宣により初めて音楽の遣唐使として、藤原貞敏(ふじわらのさだとし)が入唐し、博士廉承武(れんしょうふ)に謁して、琵琶の秘曲としてこの曲を伝授された。貞敏はわが国の琵琶の始祖とあがめられている人である。

 舞は後にわが国で林直倉(はやしなおくら)によって作舞された。曲は序破急にわかれ、典型的な整った曲である。序に当たる道行(みちゆき)には「迦陵頻」(かりょうびん)の曲が用いられる。平舞装束(へいぶしょうぞく)をつけ、特殊な甲をかぶる。古来殿堂の新築祝賀の宴によくこの曲が舞われる。


甘州(かんしゅう)

 この曲名は、古代中国の地名である。この地は甘竹の産地で、竹の根に毒虫がいて人を害したが、この曲を演奏すると、金翅鳥の鳴声と思って毒虫が害を与えなかったという伝説がある。天王寺楽所にのみ、この曲に「早甘州」と名づける急の曲が舞われるのが特徴である。他の楽所では現在でも「早甘州」は楽譜もなく、演奏もない。


蘭陵王(らんりょうおう)

 略して単に陵王ともいう。一人で舞う左方の走舞(わしりまい)として大変有名である。普通の舞は四人でゆるやかに舞うのに対して、面をつけ急な拍子で走り回って舞うので走舞(わしりまい)と称する。

 古来この舞いにまつわる伝説として、次のような話が伝えられている。古代中国の南北朝時代、斉の国に蘭陵王長恭という武勇才智に長けた王がいた。ところがこの王は顔形が美しく優しく、戦場で威令が及ばないため、一計を案して、いかめしい龍の仮面をかぶって周の軍と金煽城で戦ったところ大勝を博した。その勇ましい姿を舞曲にしたものであるという。右手に金色の桴(ばち)を持ち、曲の最後に大きく前方を指す手があるが、これは三軍叱責の姿であるといわれている。

 この説話でいえば、曲舞ともに中国伝来のものということになるが、面や舞振りがタイ・ミャンマーの仮面に酷似している点、また曲の旋律がきわめて南方的な色が濃いことなどから、やはりインドシナ方面より伝承されたものと考える方が妥当である。やはり林邑僧仏哲により伝えられた林邑八楽の一つであると考えられる。


北庭楽(ほくていらく)

この曲は、唐代に「涼州曲」とも呼ばれ、中国西域の風俗舞であったともいわれ、また唐の教坊の楽の「北亭子」という楽で、古く日本に伝来していたものが中絶してしまったものともいわれている。いずれにせよ、現行のものは亭子院すなわち宇多天皇の時に、不老門の北庭で再興されたものといわれ、日本で作られた曲である。

 舞はまず「壱越調調子」を奏している間に舞人が「出手」(ずりて)を舞い所定の位置につく。次に当曲となりますが、第二拍子まで正面を向いて、以下拍子三つずつ、四つの部分に分かれ、それぞれ返法になっている。当曲が終わると、再び当曲を「重吹」(しげぶき)してその間に舞人は「入手」(いるて)を舞って退場する。


納曽利(なそり)

 高麗楽(こまがく)による右方の曲で、一名「双龍舞(そうりゅうのまい)」といい、二人舞である。雌雄の龍が昇天する姿を模したという。ただし一人で舞う事もあるが、その時は「落蹲(らくそん)」という。舞い終わった時桴を突いて蹲居するところから出たと思われる。「陵王」の番舞としてよく知られている。四天王寺には重文の陵王、納曽利の古面があり、特に有名である。昔わが国の王朝時代には競馬や相撲の節会(せちえ)で右方の勝者を祝ってこの曲を舞ったとも聖駕を迎える時に奏したともいわれている。

 面をつけた二人の舞人が向かい合ったり、背中合わせで回ったりするため二人の呼吸があわないと揃いにくい舞であるが、「急」で三之鼓が唐拍子というリズミカルなテンポを打ち、それがものうげな旋律対比して、非常に面白い舞曲である


八仙(はっせん)

 「崑崙八仙」(ころばせ)ともいう。崑崙山に住む八羽の仙禽ということで、仙禽とは鶴のことを言う。くちばしの先端に小さな鈴のついた変わった面をつけ、扇形の兜をかぶる。枹に大きな鯉の模様がある。枹の上から網をかぶった変わった装束である。袖を取り合って輪をつくって舞う姿は、大空に舞い遊ぶ鶴の姿にふさわしい。舞うたびに鳴る鈴の音は、鶴の鳴声を模したもの、舞は冠鶴を表したものとであるといわれる。


蘇莫者(そまくしゃ)

 曲名は、現在の中央アジアのトルファン地方の一種の帽子のことであるともいわれ、林邑僧仏哲が伝えた「林邑八楽」の中の一つである。中央アジア地方の民族音楽の一つであるとも考えられる。聖徳太子は常に飛鳥と天王寺の間を愛馬「甲斐の黒駒」に乗り往復された。ある秋の候(装束の「蓑」に栗の枯葉がついていることことから推察)大和と河内の境にある大和川の亀の瀬で、太子が愛用の洞簫(どうしょう=中国古代の尺八)をとり、馬上で吹奏されたとき、一匹の老猿(実は信貴の山神)が現れて笛の音に合わせて舞ったという。その姿を天王寺の楽人に命じてつくられたものであるという。天王寺ではこの横笛の主奏者が、太子を表わす平纓唐冠(ひらえいとうかんむり)をかぶり聖徳太子になぞらえて舞台横に立って演奏する。特に聖徳太子ご愛用の笛と伝える四天王寺所蔵の「京不見御笛(きょうみずのおふえ)」を借りて吹く慣例が残っている。これを「京不見御笛当役」という。

 四天王寺独特の舞楽として、古来より天王寺楽所の楽家薗家の秘舞として伝承された


安摩・二之舞(あま・にのまい)

 この舞は古来「安摩」と「二之舞」を一つの舞楽として伝えてきたのですが、いずれの時代からか「二之舞」の伝承が失われ、今日では「安摩」のみしか伝えられてはいません。古い雅楽書では、「安摩」の舞人が舞を終えた後「二之舞」の舞人が登台し、「安摩」の舞態をまねしようとするのですが、それはとても拙くこっけいで観客の失笑をかうものであったと伝えています。ちなみに生活用語の中に「二の舞を踏む」とあるのはこの舞楽から出た言葉だとされています。従って「二之舞」は「安摩」に対する一種の「もどき」のような舞楽であったと考えられ、あたかも能の翁と三番叟との関係に似た内容のものであったことが忍ばれます。天王寺舞楽でもこの「二之舞」ははやくから失伝していたようですが、伝承の間には、この舞には色々な演出を加えて観衆の笑いを誘っていた事がうかがわれます。

 この「安摩」「二之舞」は、天平年間のわが国に渡来してきた林邑国の僧である仏哲が伝えた「林邑楽」の一つといわれています。林邑というのは6世紀頃今のベトナムの北部にあった国で、「林邑楽」とはこの国の楽舞が中国の唐を経由してかの仏哲によってもたらされ、わが国に定着したものといわれています。又、近代の研究においては、「安摩」すなわち「アマ」はサンスクリットの母という意味であり、古代インドの大地の神であるドルガー神をさしたものであるとかアーリアン系のインド人が、原住民であったドラヴィーダ族を統治することに関した祭儀を現したもので、「二之舞」はこの被征服者であるドラヴィーダ族を象徴したものであるといわれています。いずれも仮設の域ではありますが、真に面白い説だと思います。

 この舞は、その舞態や構成の上においても他の舞楽とは異なった特色のあるもので、その伴奏楽器も横笛を中心に鞨鼓、太鼓、鉦鼓の打楽器のみという変則的な編成を採り、又その楽曲も一定の旋律を洋楽のカノンのように追復的に吹奏する「乱序(らんじょ)」あるいは「乱声(らんじょう)」といった楽曲を以って充てられます。

 「安摩」の舞は、「出手(ずりて)」「音取(ねとり)」「乱序」「囀(さえずり)」「静安摩(しずあま)」「早安摩(はやあま)」の各部から構成され、まず「安摩乱声」が奏される中、襲装束(かさねしょうぞく)」諸肩脱(もろかたぬぎ)の姿、頭には巻嬰冠(けんえいのかむり)をかぶり、紙に抽象的な人面を描いた雑面(ぞうめん)を着け右手に笏(しゃく)を持った二人の舞人が現れ、舞台上で登場の為の「出手」を舞います。次にこの舞の属する調子である「沙陀調音取(さだちょうのねとり)」が奏され、当曲の演奏に入ります。当曲では舞楽「蘭陵王(らんりょうおう)」の初めの部分に奏される「陵王乱序(りょうおうらんじょ)」がその楽曲に充てられます。舞の途中で楽曲が途切れ、無音の中に舞人達が「出手」の舞手を再び行います。この部分を「囀」といい、往古の舞楽では、奏舞の最中に舞人が歌唱を行う習慣がありましたが、これを「囀」あるいは「詠(えい)」と言いました。現在ではこのような習慣も廃絶しましたが、この舞ではこのような形でそれが残されているのです。「囀」のあと再び「陵王乱序」が緩慢なテンポで始められますと舞人はゆったりした舞手を繰り広げます。この部分を「静安摩」といいますが、途中で突如として急激なテンポに変わります。これを「早安摩」といい、舞人は動きの激しい動作で跳躍しながら舞台を巡りあるいは前後に移動しつつ、退出して行きます。

 さてこの「安摩」に続く「二之舞」ですが、先述したとおり舞譜も残存しておらず、その完全な復元は甚だ難しいと言わねばなりません。雅亮会では雅楽書などに散見するこの舞についての記録や舞法などの記述をもとにして、第19回雅楽公演会に際してその復元を試みました。この「二之舞」も「安摩」同様二人の舞人が登場します。一臈(いちろう)の舞人は左方襲装束(かさねしょうぞく)諸肩脱で咲面(えみめん)をつけます。咲面は老爺の容貌をかたどった仮面で、頭部に笹の小枝を差し、腰には鳥甲(とりかぶと)を吊り下げるという真に変わった姿をしています。二臈(にろう)の舞人は右方襲装束諸肩脱の姿にこれは腫面(はれめん)という仮面をつけます。腫面は老婆の容貌をかたどった仮面なのですが、仮面の名称が示すように顔面が腫れ上がり醜くむくんだ表情をしています。そして、手には笏の代わりに楽太鼓のばちを持ってこれも変わった姿で登場します。

 「早安摩」が終る頃「二之舞」の舞人達は舞台に現れ、やがて「安摩」の舞人が終って退出しかけると「二之舞」の一臈の老爺が「安摩」の二臈に笏を乞う所作をしますが、拒否され再び二臈の舞人に同じ所作をしてようやく笏をもらいます。「陵王乱序」が発楽されますと二人は登台し、たどたどしい足取りで舞台を一巡し、所定の舞座につきます。次に老爺が「囀」の手を舞い、二人揃って「静安摩」「早安摩」に似た舞を舞ってふらふらになって退出して行きます。


打毬楽(たぎゅうらく)

 唐伝の曲と言われています。曲名が示す文字のとおり舞台中央に置かれた球を、毬杖(ぎっちょ)という先端の曲がったスティックを持った四人の舞人が、円陣をなして打つ姿をかたどった舞です。『教訓抄(きょうくんしょう)』という雅楽書によれば往古は八十人あるいは四十人の舞人が騎馬にてこの舞楽を奏したと伝えられていますので、古くはイギリス等でよく行われているポロ競技のような舞であったのかも知れません。

 楽曲は左方唐楽、太食調に属します。まず太食調調子が奏される中、節会(せちえ)の競馬(くらべむま)の騎手の装束に似た裲襠装束(りょうとうしょうぞく)を着け、巻嬰冠をかぶり右手に毬杖を持った四人の舞人が順次登台し、それぞれ所定の舞座につきます。やがて「打毬楽」の当曲が奏されますと、舞人達は毬杖を打ち振り中央の球を打つ所作を示しながら円陣をなしてあるときは外に広がり、ある時は内に寄りながら旋回し、再びもとの舞座に戻ると毬杖を振る舞の手を繰り返して当曲を終えます。

 再び太食調調子が奏されますと、舞人達は揃って「入手」を舞います。そして一臈の舞人が中央に進んで「球取る手」と称す短い舞を舞い、球を取って懐に収め膝退しながら舞座に戻りますと、四臈の舞人より順次退場していきます。


採桑老(さいそうろう)

 齢を重ねて死を目前にした老翁が、長寿の妙薬といわれる桑葉を求めて山野をさまよい歩く姿を、舞にかたどったものと伝えられ、今は廃絶していますが、かつて舞楽の奏舞の間に舞人によって詠唱されたというこの舞の(えい)の詞章には「三十にして情まさに盛んなり、四十にして気力微なり、五十にして衰老に至る、六十にして行歩宣たり、七十にして杖に懸りて立つ、八十にして座すこと巍々たり、九十にして重き病を得、百歳にして死すること疑いなし」とあるように、齢を重ねるとともに次第に心身ともに衰え、その終焉に臨んだ人間がなおも生への執着をもって、不老不死の妙薬を求めるといった壮絶な内容の舞とも伝えられています。


胡徳楽(ことくらく)

 この舞こそは舞楽のレパートリーの内で、まさに特異中の特異なものとでもいうべきで、舞というよりも仮面をつけたパントマイムといったほうがいいかも知れません。仮面舞踊といえば、七世紀にわが国にもたらされ、平安時代にはすでに廃絶し、今ではもうその内容がわからず、仮面のみが正倉院に残されている幻の芸能である「伎楽」もあるいはこのような内容ではなかったかと推察されます。しかもこの舞は酒宴をテーマにして、登場人物がそれぞれにユーモラスなしぐさをするなど、この点においてもユニークな舞楽と言えます。この曲は現在高麗楽、壱越調に属していますが、鎌倉時代の楽書「教訓抄」によれば、この曲はもともと唐楽曲で仁明天皇の承和年間に高麗楽曲に改作されたことが記されております。さすればこの曲も唐伝の、しかも民間に行われた散楽の一つではなかったかと推察されます。

 右方楽舎より意調子(篳篥と高麗笛の主管者による短い曲)が奏されますと、左方より亭主役の勧杯(けんぱい)とその下僕で酌人の瓶子取(へいしとり)が登場し、舞台の正面に座を占めます。勧杯は、襲装束に太刀を佩き、人面を象徴化した紙の雑面(ぞうめん)をかぶり頭には唐冠(とうかん)と称する冠を着けています。まさに異様な中にも威厳のある風体といえます。一方瓶子取は枹を脱いだ襲装束に老爺の仮面をつけ、右手に盃左手に瓶子を抱えて現れます。この老爺の仮面には二之舞の「咲面(えみめん)」が流用されることになっています。

 やがて当曲が奏されますと、六人の客人が順次登場し舞台上に三人ずつ向かい合って座ります。客人は瓶子取と同様枹を脱いだ襲装束を着て、いかにも酔顔を表わす赤い仮面をつけています。客人達が座につく間、瓶子取は舞台の隅で瓶子から酒を盗み飲みします。客人達が全て揃うと瓶子取は盃と瓶子をもって客人達に盃を勧め酌をして回ります。充分に酒が回った客人達は、やがて立ちあがると両手を左右に打ち振って舞い始めます。六人が輪をなして舞い終わり、順次退出しますと、後に残ったのは度々の盗み酒すっかり出来上がった瓶子取、客人達と同様に舞いながら退出しようとしますが、歩みが思うようにはかどらず、よろけながらもしかし舞の基本的な形は崩さずに舞台を去って行こうとします。この部分は舞人としての瓶子取の演技の最も難しいところであり、この部分について雅楽書「教訓抄」には「天王寺ニハ、方ヲ違エテ アチコチ マトヒ歩クト申スナリ ソレモアマリ侍ル」と記され、この所作が四天王寺に伝承されいてる胡徳楽の独特の舞ぶりであることを示唆しています。最後に瓶子取は懐中より盃を取りだし、舞台に投げつけて退出します。


延喜楽(えんぎらく)

 高麗楽、右方の楽で平舞の代表的な舞楽です。延喜八年(908)に楽は藤原朝臣忠房あるいは和部逆麿、舞は式部卿親王が作ったとされ、年号が曲名になっています。

 当曲で四人の舞人が舞台の中央で順次「出手」(ずりて)を舞って所定の位置に着くと、拍子を計っておもむろに舞が始まります。途中加拍子(くわえびょうし)に移り、舞人が後ろ向きで舞は終わります


戻る